いよいよ転院の日。
ソーシャルワーカーさんの提案により、転院する際は久々の外出となるので普段着を着て介護タクシーに乗って転院先の病院に行きました。
転院先の病院に1歳半の次女と私は先に到着して父と付き添いの母を待っていました。
父は目を閉じてうなだれるように車椅子に座り、介護付き添いの方と一緒にロビーにいたのを見つけました。声をかけると次女を見るなり上体を起こしてニコニコっと表情が晴れたのが今でも印象に残っています!
母とも合流してみんなで病室まで行く為エレベーターに乗る時に、父が自ら次女に手を伸ばしてタッチを求めていました。さっきまでぐったりうなだれていたので心配していましたが、エレベーターでの姿でみんなでほっこりしたのを覚えています^_^
転院先の病院は総合病院で、一階には散髪屋さんもありました。
肋骨の痛みもあり、自分で動くのが辛い時でしたが、母はいつも散髪屋さんに連れていきたいと言っていました。
病室にも散髪屋さんが出張しに来てくれると聞き、その点も転院してきて良かったなと母は言っていました。
また、一階にはパン屋が入っていて病院が焼きたてパンのいい匂いがしています。「ここの病院は好きなのを食べてもいいんだって」と母が父に声をかけると、「あんぱん」と答えたそうです。
この頃、父の食欲がだいぶ減っていました。また肺癌のせいもあり、咳をするので咀嚼が上手くないと詰まらせることが考えられたので流動食を一口二口くらいしか食べれていませんでした。
早速食べたいと言っていたあんぱんを一階で買い、一口くらいでもという気持ちで食べさせると、「もっと」とのことで二口、1/4.半分、そして結局丸々1つ食べたとのことで、私もびっくりしました!
あんぱん効果もあってか顔色も良く、孫達の様子も笑って過ごすほど元気になったような気がします。
しかし、2週間後には体調がどんどん悪化して、流動食すら食べれないので点滴から栄養をとる形となりました。
やはり、口にしないこともありその頃からぐっと痩せて別人のようでした。
そして、亡くなる3日前の夜8時半頃、子ども達を寝かせようとした時に私の携帯が鳴りました。
こんな時間に電話がかかってくるなんて滅多にない事なので、その時にはもうだめかと一瞬で悟りました。
母からの電話で「パパの呼吸があがってすごく苦しそう。もうだめかも。さっき医者から電話があって仕事終わりに今かけつけて病室にいる。」とのことでした。
もう今から行ってもだめかと思い、すぐに「パパにかわって!」と言い、「パパ、今から行くよ!本当にいままでありがとう!パパの子どもで幸せだったよ!」と咄嗟に叫んでいました。
旦那もその時いたので子ども達は旦那に任せて、すぐタクシーを呼び、急いで病院に駆けつけました。
寒空の下でタクシーを待っている時もタクシーの中も病院に着いてからもずっと震えが止まらなかったのを覚えています。
死を受け入れたつもりで緩和ケアに転院手続きをしたものの、まだ死を受け入れられず、その時が来るのが怖くて怖くてパニックになっていました。
着いたら父は目をひんむいて酸素マスクがつけられていて呼吸が早くとても苦しそうでした。
私は見ていられない状態でしたが、とにかく感謝を伝えなければ!と必死でした。
一番初めの面談で院長先生の話では、とことん痛みをとるのを目的としているとのことだったので、その場にいた看護師さんに泣きながら「父が苦しそうなので一刻も早く痛みをとってあげたいです!なんとかなりませんか!?」と訴えると、柔らかな穏やかな声とは反対に目は潤んでいる看護師が「今、緩和剤を入れますね。少しずつ効いてくると思います。」と言って、点滴のところから投薬してくれました。
しばらくは変わらない感じで、いつ急変するか分からない様子に母も私も手を握って声をかけるだけで精一杯の心持ちでした。
1時間も経つくらいから少しずつ呼吸が穏やかになり、目は半開きで寝ている様子でした。
私「寝たんかな」
母「なんかそんな感じするね」
私「目閉じないね」
母「目閉じさせてあげよっか」
そんなやりとりをして、その夜は泊まることにし、緊張から眠気も起こらず朝を迎えました。
朝方も相変わらずな様子で酸素マスクは外せなく、一気に大量に息を吸うような呼吸の仕方をしていました。
万が一のことも考えて、しばらくは旦那が仕事を休んでくれて、それに甘えさせてもらい私は少し家に戻りながら父の側にいさせてもらうことになりました。旦那がいなければ、悔いが残るお別れになったのではないかと思うと感謝してもしきれないくらいありがたかったです。
長女の幼稚園の準備など朝はバタバタするので朝のみ帰らせてもらい、見送った後にお風呂に入り、また病院に向かう生活をしていました。
長女が幼稚園から帰ってくるとみんなで病院に来てくれて、夕飯を食べて夜に帰って行ったのですが、ママが近くにいない寂しさが2人の子ども達は日に日に増していたようで、帰り際は大泣きだったので、それを見送るのも毎日辛いものがありました。
そして危篤状態から3日後、いつもの様に子ども達が帰った夜、この生活にも少し慣れてきてこの頃には病院でも母と交代で寝れていたこともあり、私達は思い出話をしたり父の好きな落語をYouTubeで検索して携帯を耳元に置いて聴かせたりしていました。
ふと母が、「八代亜紀とみやぞんが歌っている『だいじょうぶ』という曲をパパの(障害者の作業所からの)お迎え車の中で聞いてたんだよね」と話していたので、早速携帯で検索して耳元に携帯を置いて曲を流すと、母は歌い始めました。
母が歌っている姿はカラオケも行かなかったので私が子どもの時以来なのか記憶が無いくらいだったのでとても新鮮でした。
優しい声で語りかけるように、父の手をトントンとしながら見つめ合うように母は歌っていました。まるで子守唄を聴かせるように。
父はもうこの時には息をするのに必死であまり反応を示さなかったのですが、この時にギュッと手を握ってくれたのが嬉しくて母と泣きました。
この歌を聴くとその頃を思い出して切なくなるのでまだ聴けていませんが、母の歌った声や父と母の夫婦の姿は鮮明に思い出します。
その日の明けの2時半頃、私が寝て起きると母は父の手を握ってベットに顔を埋めて寝ていました。
その時、父の呼吸がまた早くなっていることに気がつきました。
すぐにナースコールをすると、看護師さんが来て「そうですね、少し呼吸が早くなっているとのと酸素濃度もだいぶ低くなってます。今緩和剤を投薬するとそのまま…ってなってしまうかもしれません。自然に任せた方がいいかもしれません。一応今先生に(電話で)聞いてみます。」と静かな口調で言ってくれました。
確かに呼吸は早いものの危篤の時より一見苦しそうな感じは見えませんでした。
3日間母と沢山話をして、父ともゆったりした時間の中で過ごし、死の恐怖がだんだんと薄れて、とにかく早く楽にしてあげたい気持ちが強くなっていました。
なのでこの時には「パパ、ありがとうね、もう楽になるから大丈夫だよ!」「ママも私も近くにいるからね!」「安心してね」「よく頑張ったね」「今までありがとね」「大好きだよ」と恥ずかしげもなく心からの声がきちんと言えたのが今となっては良かったなと思います。
本当は元気なうちに沢山言うべきなのですが、やはり恥ずかしさが上回ってしまいますね。なのでここぞとばかり伝えた感じです。
その後30分も経たないくらいでだんだんと呼吸の間隔が長くなり、最期を終えました。
最期は母も私も静かで
私「今のが最後の呼吸だったかな」
母「そうっぽいね」
私「よく頑張ったね。先生呼んでくるね」
と、やりとりをしたあとに先生が来られて、心電図の確認・脈の確認・瞳孔の確認をして時間を教えてくれました。
最期は弟が県外にいて居なかったけど、家族3人でゆったりとした中で過ごせた事、最期まで父らしく人間らしくを第一に考えて下さった病院の方々に感謝しています。
こんな気持ちで父を看取れたので、転院して良かったと今でも母と話しています。
末期の方・その家族の為に、緩和ケアの認知・施設の普及を切に願います。